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| 店長が商社勤務時代に海外各地へ出張で出かけた時に体験した面白い話や感じたことを メルマガの中でご紹介しておりますが、まとめてここにアップいたしました。 面白い話もありますので、ごゆっくりお楽しみ下さい。(*^-^*) |
| ●2004年3月9日 配信 「ある日のモスクワでのこと !」 |
| 先週に引き続いて、もうちょっとモスクワに滞在してみましょう(笑) 1週間とか2週間の滞在であれば、日本に帰る時は駐在員が「ご苦労さん」ということで空港まで送ってくれて、チェックインの作業まで全部やってくれます。 ちょとVIP気分です(*^-^*) ちょうど、展示会・商談会が続いたので滞在ビザの切り替えなどで国外に出る必要があるので、コペンハーゲンへ出たりしてモスクワでの滞在が通算1カ月に及んだことがあります。 そうなりますと出張員も準駐在員みたいな扱いとなり、日本に帰る時には、現地事情にも慣れただろうから 自分で勝手に空港へ行って・・・と駐在員の見送りはありません (*`ε´*) タクシーを拾って、空港へ行って、飛行機に乗るなんぞ造作もないことです。 パリ発のJALでモスクワは夕方着の予定ですので、事務所のみなさんに長い間お世話になりましたと別れを告げて空港へ向かいました。 ところが、空港へ着いてみると、いつもはガラ空きの国際線のチェックインコーナーが人で一杯です。 カウンターで聞いたら、ヨーロッパは猛吹雪で飛行機が飛んで来ていないとの説明で、いつ来るか今のところはまったく分からないとのこと。 いつ飛んでくるか分からない飛行機を、座る場所もない空港ロビーで待っていても仕方がないので、連絡先を言って事務所へ戻ることにしました。 外で待っているタクシーを捕まえて乗ろうとしたら、運転手がロシア語で何やら話しかけてきましたが、当方自分の目的を果たすロシア語しか知りません(´ヘ`;) どうやら、タクシー代は要らないから「外国タバコ」を買ってくれとのことのようです。 空港の売店で「マルボロ」を買って渡すと スバシーバ スパシーバ (ありがとう)と言って市内の事務所まで送ってくれました。 当時のソ連ではお金はあっても物がないので欲しい物が買えません。 これもドルの威力でしょうか?(笑) ▲Topへ |
| ●2004年3月1日 配信 「モスクワで冷蔵庫の使い方 !」 |
| むかし、旧ソ連に衣料品を輸出していた時は、ちょうど今頃の時期になると今年1年分の衣料品の買い付け 商談がモスクワであります。 計画経済のお国でしたから、年度始めに今年の国民の消費財の購入をします。 最初は数億円単位の注文ですが、追加、追加が来ますので1年間では何十億円にもなる大きな商談です。 モスクワ支店に駐在員は居りますが、本社からも出張して対応していました。 日本では、梅が咲いたとか、福寿草が芽を出したとか話題になる時期ですが、この時期のモスクワは、 まだまだ冬真っ盛りです。 ちょっと寒い時は、すぐにマイナス20度まで下がります。 モスクワに限らず、当時のソ連出張で一番最初にすることは食料品の買出しです。 ベリオスカというドルショップへ行って、ビール、ソーセージなどの必需品を 買ってホテルに備蓄しておきます。 最近はファーストフッドの店が出来ましたが、当時はホテルの中にも、ホテルの外にも売店などはありません。 快適な生活?をしようと思ったら、自給自足の生活です(´ヘ`;) 買ってきたビールなどは冷蔵庫に入れておきます。 でも、冷蔵庫は保管庫として使うだけで電源は切っておくのが鉄則です。 何故かって? モーター室に居るのではと思うほど、モーターの音がうるさいので 夜などは眠ることができません。 そして、冷え過ぎたり、冷えなかったりで当てにならないからです。 それでは、買ってきたビールを生温で飲むのかって? いや、違います。 毎朝、出かける前に2重窓の窓と窓の間の隙間にビールを置いて出かけます。 夕方に帰ってきたら、ちょうど飲み頃にビンビンに冷えています(*^-^*) これを生活の知恵と言うのでしょうか?(笑) ▲Topへ |
| ●2004年2月23日 配信 「ヨーロッパは東欧に限る??」 |
| 先日テレビを観ていたら、スイスのチューリッヒの春の季節の街の様子とか近郊の湖や山並みの風景がクラシック音楽に乗って映っていました。 ちょうど今頃の時期、チェコのプラハに大手ハンカチ問屋のお客さんと一緒に買付けに行ったことがあります。 日本からの時差の調整も兼ねてチューリッヒに週末に入るように スケジュールを作りました。 「ちょうど良い機会なので少し観光の要素も入れてよ」 というお客さんの希望も本当は入れました(笑) 「旗」は持ちませんでしたが、にわか観光ガイドへ早変わりです。 市街地や山の麓は雪が解けて黒い地面が出ていましたが、遠くの山の中腹や頂上にはまだ白い雪が残っており、それが湖に写って絵葉書そっくりの景色が今でも印象に残っています。 時差の調整も終わりまして(笑)チェコのプラハへ移動しました。 プラハでの仕事は、窓口公団へのハンカチの柄出し(指図)を午前中に行い、午後は提出された柄の検討を公団が工場と行うので、我々は返事待ちということでホテルへ帰って待機するだけです。 ホテルの部屋に居たってすることがありません。 またまた観光しましょうよ! ということになり、ここでもガイド役です。 プラハは、日本の京都と同じように古い都です。 長い歴史の間に建てられた建造物は良く保存されていて見事なものでした。 中でも街の中央に聳え立つプラハ城がある旧市街の迷路、両側の家々の風情は、まさに映画に出てくる 中世の世界そのものでした。 そして、山上のプラハ城から降りて来たら、ドイツ名で有名な「モルダウ」というヴルタヴァ川に掛かる、テレビのCMなどで何度も出てくる欄干の両側に聖人の銅像が立ち並んでいる有名なカレル橋に辿り着きます。 城の山上からこのカレル橋までの一帯は、何度訪れても最高の雰囲気です。 パリとか西欧の都市も昔からの建造物が良く保存されていますが、その街がもっている匂いというのは、 どうしても現代人が快適に生活できるように改善されているように感じます。 それに較べて東欧の街は、現代人には多少不便ではあるけど、至る所に中世の 香りが溢れているように感じました。 ボヘミアングラスとしてチェコのワイングラスやカットグラスは有名ですがこれまで長い間使っても飽きがこない不思議な魅力を今でも感じます。 トムスのプロフィールでもご紹介していますが、いつの日か家内と二人でゆっくり散策したい街のひとつではないかと思います。 実現するかどうかは分かりませんけど(´ヘ`;) ▲Topへ |
| ●2004年2月16日 配信 「財布は2個?in 香港 !」 |
| 海外に行かれた時は、現地で観光したり、美味しいものを食べたり、そしてお土産を買ったりとか、 やりたいことがたくさんありますね(^▽^*)/ そのため、ある程度のお金を持って行かれる方が多いと思います。 欧米人の場合は、トラベラーズ・チェック(旅行者用小切手)とクレジットカードで旅行をする人が多いのですが、日本人の場合はまだまだ懐に現金を入れて行く人が多いようです。 デスよね??(笑) トムスが初めて香港に出張した30数年前の話です。 そのとき香港支店に駐在して居た先輩に言われたことを、その後30数年間、海外へ出かけた時に守っていることがあります。 「小銭入れの財布」と「紙幣を入れる財布」と「財布を2つ」作るです。 財布のひとつには、小銭と少額紙幣を入れておいて、そして、もうひとつの財布には、今回の旅行で持ってきた残りのお金を入れておきます。 街に出る時は、小銭入れと小額紙幣を入れた財布を持って出て、全財産が入った財布はホテルのキャシュボックスに預けることです。 (トムスの場合は、余程の大金でない限りスーツケースの中に隠し入れて、必ず鍵を掛けて部屋に置いてますけど・・・) 現地人と間違えるくらい香港に同化していた先輩ですが、白昼の街中で、強盗数人に取り囲まれた経験が何回かあるそうです。 彼らの目的は金を盗ることなので、そのような時は持っている「財布」を遠くへ放り投げて、彼らの気がそっちへ向いたスキを見て逃げたそうです。 放り投げたのがコインなどが入っている「小銭入れ」では効果がなく、逆に暴行を振るわれて財布を盗られることになるので「財布」でなくてはダメだ。 だからその時に備えて「小銭入れの財布」を準備・・・との理屈です。 香港に限りませんが、どこの国、どんな街でもあることなので、 なんとなく説得力のあるアドバイスだったように思います。 ツアー旅行にしろ、個人旅行にしろ、安全・財産は常に自己責任で 守らねばと思います! ハイ !! ♪(* ̄ー ̄)v ▲Topへ |
| ●2004年2月9日 配信 「寒くなったり、暑くなったり!」 |
| この数日、今日は暖かいなと思ったら、次の日は雪が横から降るぐらい寒くなったりと、気候の変化が激しくて寒暖の差が大き過ぎるので体調の管理が大変ですね。 ちょうど今頃の時期に、ソウルとインドネシアのバンドンへの出張が重なったことがあります(*´∀`*) ソウルはマイナス10〜15度の真冬日。 バンドンは赤道直下ですからプラス30度の夏 真っ盛り。 ふたつの都市の温度差は、最大40度から45度となります(*`ε´*) 気候の温度差が大きすぎるので、この時ばかりはソウルから一回日本に帰って時間を開けてから行くか、 ソウルから直行するか悩みました。 結局スケジュールの調整が出来ないので、ソウルから直行することにしました。 今頃のソウルは風が吹けば「身を切る」とはこのことかと思うほど冷え込みます。 日本からは、もちろん冬物コート、襟巻きの 完全防寒の冬の服装です。 ソウルでの3日間の仕事を終えて、香港経由ジャカルタへ向かいました。 ジャカルタには夜の9時頃に着きましたが、空港から外へ出たら昼間の暑さがそのまま残っていて、 湿度100%かと思うほどジトジトベッタリの気候です。 半袖、短パンの人ごみの中を冬物コート・マフラーを抱えてタクシー乗り場へ。 でも、ムッ!!とするような暑さなのに汗が出ません。 人間の体は、暑い時は汗をかいて体温下げる機能をもっているのですが、寒い所から来たので毛穴が 閉まっているようです。 発汗機能が働かず、汗をかくことが出来ないので、体温調節が出来ないようで気分が悪くなって来ました。 ホテルへ着くなり、サウナへ飛び込み汗を思いっきり出しましたが、インドネシアでの3日間は体調的にも キツイ仕事となりました。 やはり、急激な温度の変化は、体には良くないようですね(´ヘ`;) 、 ▲Topへ |
| ●2004年2月2日 配信 「最近人気の温水床暖房!」 |
| 最近は 温水を使った床暖房の家やマンションが増えているようです。 床からほんのりと暖気が上がってきて、とても気持ちが良いのですが、 何よりも部屋全体が暖められます ので、赤ちゃんやお年寄りが居る家では、空気が汚れず快適だということが人気のようです。 床式暖房ということであれば、お隣の国の韓国では一般的な暖房です。 「温床」(オンドル)という言葉を聞いたことがあると思います。 昔は 床下に煙管を通して 外の焚き口で薪を燃やしてその煙を循環させて、煙の熱気で部屋を暖めて いたようです。 最近は 部屋の床下に温水用の配管設備をして それに温水を循環させて 暖房するのが一般的な 暖房のやり方となっています。 ソウルに駐在していた時に 漢河(ハンガン)沿いの龍山区東部ニ村洞にある 11階建てのアパートの 4階に住んでいました。 韓国は オンドルだから冬でも家の中の部屋は暖かいよ! と聞いていたのですが4階の我が家は とても寒く日本から持って行った石油ストーブ に一日中 火を点けていました。(*`ε´*) ソウル支店の現地社員に その話をしたら 韓国では、アパートごとに地域暖房システムを採用しているのでボイラーで沸かした熱水を一度屋上に 汲み上げて配管を利用して熱水を上から下に流すやり方で給湯・暖房をやっています。 お湯が熱い上層階は暖かいけど 下に行くほどお湯が冷めるから下層階に行くほど暖ったまらない かもしれませんね! だって!! (´ヘ`;) 4階のその部屋の賃貸契約が終わった2年後には 漢河が部屋から見える14階建てのアパートの11階の部屋へ引越しました。 彼らの話は本当でした。 外がマイナス15度の時でも 部屋の中は暑すぎて温度調節のため窓を開けたりしていました。 韓国でアパートを借りる時は 上層階の部屋をお勧めします。(*^-^*) ▲Topへ |
| ●2004年1月26日 配信 「アラーの神のご利益は?」 |
| この数日 寒波で 物凄く 寒いので 暖かい所の お話をしましょう(笑) インドネシアの ジャカルタへ 行った時の話です。 大阪から ジャカルタへ行くには 夜中に飛ぶ 直行便か、昼の飛行機で 香港か シンガポールで 乗り換えて行く ルートがあります。 直行便は 10時間で行けますが 夜間飛行なので 睡眠不足になりますから、時間は掛かるけど 乗り換え地での ショッピングが 楽しめる昼間のフライトを 利用して 行ってました。 初めて行った時は トムスにとって 初めてのイスラム圏への旅でしたので、 いままでの 仏教圏や キリスト教圏とは 違う新鮮さが ありました。 まず 朝早くから 町中のスピーカーに 大きな音が流れ、無理やりに 起こされる ことです。 ホテル近くの街頭スピーカーから コーランが流れ 礼拝の呼びかけです。 日中も 夜も 祈りの時間があって あっちこっちで 礼拝が始まります。 これが イスラム教徒が 守るべき五行の ひとつだったのですが 寝不足になるし 仕事は中断させられるし…… こういう習慣の中で 毎日暮らしていると、仕事にならないのではと 余計な心配をするのですが 現地の人間は “涼しい”顔で 曰く 「それは違います。アラーに 祈ることが 生活の中で 一番大切なこと 仕事は その次ぎ ですからね (^o^)」 あくせく働いて 何が嬉しいのか 神のみもとにあって 安寧である為には 何をおいても 礼拝に励むのは 当然のこと! という 精神のロジック なんですね。 信仰心の薄い トムスには ちょっと驚きでした(*^-^*) ▲Topへ |
| ●2004年1月19日 配信 「機内ではトイレ内も禁煙(*^-^*)」 |
| 先週、航空機内で 携帯電話を使ったり トイレでタバコを吸ったら、「機内迷惑」罰金50万円と 新聞に出ていましたね。 トムスもタバコを吸いますが 2、3時間のフライトであれば 我慢できます。 でも 機内食の際に アルコールなどを飲めば 吸いたくなります。 旧ソ連時代に モスクワからハバロフスクへの 国内線の話です。 北海道の対岸にある ナホトカで 商談がありました。 日本からは 夏であれば 新潟→ハバロフスクは 飛行機 そして ハバロフスクから 列車に18時間乗れば 行くことができます。 でも冬になれば 客が少ないので 日本航空も 10月ー3月は飛びません。 そんな時は 日本海に面した港の ナホトカへ行くのに、成田→モスクワ 10時間 モスクワ→ハバロフスク 8時間のフライト ハバロフスク→ナホトカ 18時間の列車の旅 ほんの そこまで行くのに 物凄い遠回りをしなければ 行けません(´ヘ`;) モスクワ→ハバロフスクの 国内線便は 別名「チキン・バスケット」と 日本人の間では 呼ばれていました。 当時の 国内線の機内は 快適とは 無縁の世界でした。 座席の幅は狭く その上 前の席との 間隔が少ないので、膝を立てれば 前の席の大きな体の ロシア人の背中に当たり イズミニーチャ (すみません) 食事の時間になれば ブザーが ブッ ブッと鳴り、通路側から トレーが手渡しで 渡されて まるで 映画に出てくる 刑務所の 食堂の風景と そっくり そして 出てくる 食事は 毎回 フライド・チキンが2個、これが チキン・バスケット便の 名前の由来(笑) 食事が終わったら やはり 一服したいのですが 機内は 全席 禁煙! 最近多い 禁煙フライトではなく 機内の換気が 悪いから禁煙にしてるだけです(笑) 食事が終わったら タバコを吸うために トイレの前は 長蛇の列、本来の目的で トイレの中に入ったけど 煙が充満していて タバコの脂で ま黄色 でした(´ヘ`;) ▲Topへ |
| ●2004年1月5日 配信 「シドニー正月旅行記」 |
| 今年のお正月は 年末から 9連休の方も いらしゃるので 海外へ お出かけになった方も 多いと思います。 トムスも 数年前に 弟が シドニーに 駐在していましたので、母と家内の3人で 行ったことが あります。 業務での 海外出張は 何度となく ありましたが、ガイド本 片手の 観光旅行は 初めての 経験でした。 シドニー空港に 着いたら 弟が 出迎えに 来ていて、親子 兄弟 久しぶりの 再会です。 シドニーに 駐在したことがある 昔の会社の同僚が、シドニーは 良いところだ と言っていたのは 本当でした!! 「空が こんなに 青かったけ?」 というほど 青かった!! そして街並みは 整然として 緑の多い 清潔な街でした。 オーストラリアの歴史は ご存知のとおり 約200年前に イギリスからの 流刑囚によって 開拓されました。 アメリカの独立で イギリスは 流刑先を失って 困っていたのですが、キャプテン・クックが オーストラリアを 発見したので、当時の 内務大臣のシドニー卿が 流刑地の候補として 推薦して 最初の流刑囚が 上陸したのが 現在のシドニー湾の 近郊でした。 それが シドニーと 呼ばれるようになった 由来だそうです。 弟の家に着いて 今晩は 何を食べようか ということになりました。 初日から オージービーフは ちょっと ハードなのでシーフードを 食べようということで フィシャーマンズ市場へ 美味しい物と 言えば やっぱし ロブスター と 岩カキ ですね!! まずは ロブスターを調達 しなければと いけすを 覗いて あいつ と こいつ と 大きい奴を ご指名 店員が 指名された ロブスターのひげを 掴んで 取り出そうとしたら 暴れるので ひげが プッツンと 折れて しまいました。 そしたら こいつは 生きが 悪いから 他のを選べ?? と言います。 店員が 何回か 失敗して やっと 2匹を 買うことができました(*^-^*) いけすから 取出し 終わってから 店員に「失敗」という意味の fail という単語を 使って 聞いてみたら 取り出しの時に ひげが折れる奴は 生きが 悪いから 折れるので、俺のテクニックが未熟だからではないと 反論されました(笑) 日本だったら 1匹 1万円以上する ひげの折れた 大きなロブスター 正月飾りにするじゃないから 折れてても 良いと思うんだけど 彼らにしたら そんなのは 売り物じゃない とのこと やっぱし トムスは 日本人 か (^▽^*)/ もし みなさんが シドニーに行く チャンスがあれば、お勧めしたいのは 船に乗って シドニー湾の 2時間 クルージングです。 海から眺める オベラハウス ハーバーブリッジ 海辺に建っている 家 家、 入江には 白いヨットや クルーザーが 浮かんでいる 邸宅ばかり 田舎から シドニー観光に来ていた オーストラリア人が 言ってました。 シドニーでは 「部屋から港が見える 北向きの家が最高」!! 北向きの家が最高?? はい! ここは南半球です。 日本だったら 南向きの 日当たりの良い家 ということになります。 ▲Topへ |
| ●2003年12月22日 配信 「上海出張のひとこま」 |
| 初めて上海に行ったのは 約30年前の 1970年の春でした。 ちょうど 文化大革命が 一段落して 国全体が 落ち着いてきた頃です。 テレビで観る 最近の 上海の光景とは 大違いでした。 空港からホテルまでの車中で気がついたことは、まず 街全体に色(カラー)が無かった ということでした。 道を歩いている人は ほとんどが 人民服で 帽子を被っていました。 男か 女か 区別もつかなかったというのが 印象として残っています。 上海でいつも泊まるところは 「和平飯店」(ピース・ホテル)で、上海ジャズの 発祥地として ご存知の方も多いと思います。 ホテルのある 黄浦河岸一帯は 1900年代初頭の上海租界地の面影が、そのまま残っていて タイムスリップ したような感じでした。 最近の テレビで良く紹介されている 球状のテレビ塔などがある、浦東地区は 一面の野菜畑で 砂埃が舞い上がっていました。 公司との 商談は 朝は10時から11時半 午後は2時から4時半まで と決まっています。 商談時間の延長を 申し出ても 受けてもらえません。 担当者の 説明として 9時に 出社して 商談準備 だから10時がベスト。食堂での昼食時間が 決まってるので 11時半。 午後の商談は 昼食後 準備するから 2時がベスト。 そして 退勤時間があるので 4時半までしか できません <`ヘ´> 強く申し出ると 「友好的」でない 渋々 歩いて10分のホテルへ戻って 6時から ホテルの食堂で 夕食・・・ 7時過ぎには 終わり その後 することがありません。 毎日 近くの黄浦江公園を 散策(?)してから、 海員組合にある 「友誼商店」(Friendship Shop)(土産店)へ食後の運動を兼ねて 長い夜の時間を 潰すのが日課でした(^^;) ある日 海員組合の広い敷地を 暗闇の中でも はっきりと分かるほど、 真っ白いミンクのコートを着て こちらへ歩いて来る 女性がいました。 (印象的でした!) 会社の別部隊が 大手アパレルのシルクブランドの企画で アテンドしている、「岸和田の3姉妹」として 有名なデザイナーの ひとりでした。 世界的に 有名なデザイナーでも 公司との商談は 同じだったようです。 食事の後に することがないので トムスたちと 同じ行動パターンです。 しばらく雑談した後 デザイナー先生 曰く ここで ブラブラしても 仕方ないので 私の部屋で 一杯やりましょう ということになりました。 ホテルの デザイナー先生の部屋で 車座になって 飲み会が始まりました デザイナー先生が どなたかお分かりになった方も いらしゃると、思いますが 豪放磊落で 男まさりの 岸和田の あの女性です(笑) 助手(男性)が「先生、お代わりは どういたしましょう?」と 女性っぽい シグサをして 女性言葉で 聞いたことから、ファションブランドの世界で 超有名な 男性デザイナーの数人が、そうであるので そのことが その場の話題 となりました。 デザイナー先生の説明は 「男は頭で考え 女は子宮で考える」 と 言うけど 婦人服というのは 紳士服にない微妙なライン 風合いを表現する 必要があるのです。 「私はこんな風だけど、本質的には女です」 全員 異議なし! (〃^∇^)o彡☆ だから 自分の気持ちを そのまま 表現すれば デザインできるけど 男性のデザイナーの場合は 子宮を持ってないから、繊細な婦人服を デザインしようと思えば、 どうしても あのようになってしまうみたい と 助手を指して 説明してくれたのが 今でも 印象として 残っています。 ▲Topへ |
| ●2003年12月15日 配信 「トムス一家のソウル駐在日記 その2 『女は弱し、されど家内は強し!」 |
| 最近の韓国は IT先進国として インターネットは身近なツールとして、市民生活の中に 入り込んでおり その普及は 目を見張るものがあり 日本よりも 進化している と思います。 トムスが駐在していた 1984年から1987年頃と較べれば、街並みも 比較にならない位に綺麗になり 外見だけでなく 内面的にも 生活水準は 現在の日本と 同じではないかと 思っています。 さて、話は 一気に 20年前の ソウルへ戻しまして (´ヘ`;) ソウル市龍山区東部ニ村洞(ソウル市、ヨンサンク、トンブ イーチョンドン)のアパートが (日本ではマンションと呼んでます) 我が一家の住まいです。 ソウルの繁華街として 有名な「明洞」(ミョンドン)をご存知の方は 多いと思いますが、 「洞(ドン)」という のは町・街という意味です。 東部ニ村洞には 家族持ちの駐在員が 現在も たくさん住んでいます。 理由は いろいろありますが 当時としては 中流階級の韓国人が住んでいて、街が 綺麗で 買い物が 便利であったこともありますが、日本人学校のスクールバスが来るというのが大きな理由だと思います。 ☆ ★ ☆ ━━━━━ ☆ ★ ☆ 日本から持ってきた 引越し荷物の整理も 終わり、新しい生活が 始まりました(*^^*) ところが 数日したある日 夜中に 家内が 突然「キャー」と 大きな声を上げました。ヾ(>y<;)ノ 慌てて 飛び起きて 行ってみると 「ゴキブリ」 っと 指差しながら つま先立ち 状態です。 日本の黒い大きなゴキブリと違い 茶色の小さなゴキブリですが、数匹 ゾロゾロと 壁の割れ目へ 帰って行く途中でした。 日本では ゴキブリ1匹いれば 家中大騒動 だったので 次の日 さっそく薬を買ってきて 壁の割れ目に スプレーしましたが、2,3日したら また出没します。 韓国製は ダメだとばかり 日本から ゴキブリ退治の煙の出るやつを、持ってきてもらい 部屋中 煙だらけにしました。 さすが メイド イン ジャパン です。 効果抜群です! ヽ(*^ー^)人(^ー^*)ノ これで 枕を高くして 寝れると 思いましたが やはり 現実は 厳しかった (´ヘ`;) ソウル支店で この話をしたら 韓国人社員 曰く 「韓国のアパートは 壁にひび割れが 多いから 一軒だけで 煙を焚いても 効果ありませんよ!」 「煙がある間は 割れ目を使って 隣の家に避難して煙が無くなったら また戻って来ますよ」 という説明だった。 ゴキブリ 賢い!! そして ウーン 納得!! それからの 我が女房どのは 声を上げるだけでは、解決しないことを 悟ったのか ハエたたきを持って 家中のゴキブリを、追いかけまわして おりました。 やはり 家の中のことは 家内に任せておくのが一番です。 はい ??? ▲Topへ |
| ●2003年12月8日 配信 「トムス一家のソウル駐在日記」 |
| 北朝鮮の話題の新聞・テレビ報道が多いですが 日本人そして最近は韓国の若者も忘れている人が、 多いかもしれませんが 「板門店」のある 38度線というのは 休戦ラインであって 、砲火が飛び交う 戦いはありませんが 停戦状態が 続いているのであって 「 終戦 」 しているのではありません。 トムスが ソウルに駐在したのは 1984年から1987年の4年間です。 ちょっと前のことのように思っていましたが、約20年も前のことなので大昔のことだったのですね。(#^o^#) 家族4人が落ち着いたのは 東部ニ村洞(トンブ イーチョンドン)というソウル市の中心部を流れる 漢河(ハンガン)沿いの住宅地です。 またの名前を 「日本人部落」 と称するぐらいに 日本人駐在員の家族が 多く住んでいました。 家族がソウルに来てから数日して大事なことを言い忘れて出社してしまいました(´ヘ`;) 当時の韓国では 毎月「民防」(ミンバン)と言いまして北朝鮮からの空襲に備えて「民間防衛訓練の日」 がありました。 毎月、 明日は民防をやりますと発表するので事前に分かるのですが、 その訓練の間1時間は完全に外出禁止です。 「北隗(北朝鮮のこと)が38度線を越え 攻めて来ています。 我国軍は・・・・・・」というのがスピーカから流れて戦況報告があり、1時間後に「無事、撃退しました・・・・」 のアナウンスがあって終了です。 ところが何も知らない我が家族は、新しい街の探訪とばかり民防の最中に外出したとのことです。 もちろん民防訓練のことは、まったく知りませんので空襲警報のサイレンの意味も理解する はずがありません(´ヘ`;) 人通りの少ない(?)静かな街を親子3人手をつないで歩いていたら、突然 男の人が出て来て 前の学校に掲揚されている旗を指して、何か 言ってたけど分からなかったわ ?? どうして 学校の旗を 見なきゃいけないのか 分からなかったけど、歩き回ってはいけないということが 分かったので言われるまま、歩道の上で30分も立たされていたけど、この街は、自由に歩いては いけないの ???(`ε´) スミマセン 今日はミンバンの日でした m(_ _)m 民間防衛訓練は、86年のソウルアジア大会まで行われていました。 ある日 家内が日本から持ってきた 「米」 が無くなった と言いました。 米を 買いに行こうと近くのショッピングセンターへ行きました。 ショッピングセンターへ行けばあるだろうと思ったのですが、当時の韓国のショッピングセンターでは、 米を販売していませんでした。 「ご飯」(パブ)という韓国語は 知っていたのですが、「米」(サル)という単語を知りません。 「米」なんていう単語は、それまでのソウル出張ではまったく必要のない単語でした。 「米を買いたいのですが」と日本語で言ったって通じません。 「米」という単語を、どのように表現して相手に分かってもらえたか? 冷や汗以上の奮闘でした。ハイ!! (*´∀`*) この辺が 旅行者と 居住者との 大きな違いになるのでしょうね。 今日まで家族4人が無事に生き延びているということは、無事に「米」を買うことが きたということなります。 ☆ミ(*^▽^*)ノ彡☆ ▲Topへ |
| ●2003年11月12日 配信 「ナホトカであったこと・・?」 |
| 前回も 旧ソ連のナホトカ市についてお話しましたが もう少しお話したいと思います。 ナホトカは 横浜から 船でヨーロッパへ向かう時の船旅の終着地で シベリア鉄道への 乗り継ぎ港ですが 当時のナホトカ市は 外国人立ち入り禁止区域でした。??? 船で ナホトカに着いた旅行者は 船着場の桟橋で待っている 列車へ そのまま誘導されて、 駅の構内へは 一歩も入ることができません。 港湾・鉄道設備は 大した設備じゃないけど 軍事秘密です。 撮影禁止の時代でした。 では 外国人立ち入り禁止地域に なぜ 滞在できるかって?? 業務であれば 特別に ビザを取得することが 出来ます。 公団が 身元引受人 となってくれて、 「公団ビザ」 というのを発給してもらいます。 当時のナホトカは 人口5万人ぐらいの 港町でしたが、外国人は 多い時でも 10人以下 でした。 ですから、 全員に 尾行が付きました。 日本の船会社の駐在員の Y氏がいました。 情報が すぐに流れて 我々のことは、来る前から 分かるそうです(笑) 毎晩のように ホテルに遊びに来てくれました。 外交官特権という言葉が ありますが いろいろな特権と同時に制限もあります。 その制限のひとつが 都市の中心より 40km以内 でしか行動できないということです。 40kmを 越える地域へ行く場合は 公安当局へ行動予定を届け 許可を取得する 必要があります。 彼が話してくれた話ですが 休みの日 遊びに行くのに 許可を取りに行ってたら、半日仕事になるし 日曜日は 公安局も 休みじゃないですか!! 或る日、郊外へ シビックをぶっ飛ばして スカッとして 帰ったきたそうです。 次の日、公安局の偉い人が 青筋立てて 事務所へ来たそうです。 2度と違法な行動は取らないようにと 強く抗議されたそうです。 その理由として あなたの車は速すぎる、我々の車は そんなに速く走れない。 尾行が 追いて行けなかった(*`ε´*) 「次からはゆっくり走ってくれ」 と言われた そうです(笑) ホテルからの 外出は大変でした。 ドルショップへ買出しに行くにしてもフロントへ行って、タクシーを呼んで30分以上は待たねばなりません。 ある日 タクシーが何台ぐらいあるか と聞いたことがあります。 「2000台ぐらいある」 との答え。 街の中を走っているのを ほとんど 見たこともないし ホテルで 呼んでも時間が掛かるので 何故か と質問したところ 「走っているのは100台〜200台ぐらいかな」 との答え。 「どうして??」 「タイヤがないから 全部は 走れない。 でも タクシーは 2000台ぐらいある」 との答えでした。ヽ(*^▽^)ノ~♪ ナホトカでの商談の内容は モスクワ支店経由で日本へ流します。 当時でも ナホトカと日本の間に 国際電話は ありましたが、電話回線が 日本 → ロンドン → モスクワ →(無線電話)→ナホトカと地球を半周してくるので音声が耳元に届いた時は長旅の疲れか? 生き絶えだえで ほとんど聞こえず 使い物になりませんでした。 毎晩ナホトカ時間で 夜中の12時から モスクワ支店へ電話をして、(モスクワ時間 午後5時) その日の 商談状況を 流します。 モスクワ支店からは テレックスで 日本へ流れます。 冬場は ナホトカ ⇔ モスクワ の回線状況が、非常に悪い時があります。 無線電話ですから シベリア大陸の 大気の状況が影響します。 まったく 聞こえない時が あるのですが そのような時は 冗談ですが 「今日は シベリアで 電波が 凍りついて 重くて飛べないようだ」♪ と言いながら 回線回復まで 寝ずに待たねば ならないことがあります。 日本からの 連絡がなければ 明日の商談が 出来ません。 静かに待つしか ありません。 ここで ウォッカと 夜食のソーセージが 登場するのですが 飲んでも 酔うことはできません。 繋がったら すぐに 仕事モードへ 変換せねばなりません。(´ヘ`;) 深夜までの 残業? は ザラでした。 ▲Topへ |
| ●2003年11月17日 配信 「 横浜から船に乗って・・・?」 |
| 古い演歌の歌詞ではありませんが、いくら30年前とは云え横浜から船に乗ってのんびりと 海外出張させてくれるような所は、ほとんどありませんが、世界の都市の中で一ヶ所だけありました。 それは、旧ソ連のナホトカ市です。 ナホトカって どこにあるの? と思われるでしょうね。 北海道の小樽市の対面にある シベリア大陸の最東端にある港町です。 ナホトカという名前の由来は、 ロシア語で「めっけもの」(偶然に見つけた)という意味のことらしいです。 歴史の話は割愛しますが、 ロシア帝国としてはアジアへの南下政策で冬でも使用できる港、 いわゆる不凍港が欲しかったようです。 冬でも凍らない場所を、偶然に見つたので、そこに港を作ってナホトカという名前にしたそうです。 ヨーロッパへ卒業旅行などで出かける若い人は多いですが、ほとんど格安航空チケットを求めて 飛行機で行ってますね。 トムスの時代のヨーロッパ行きは、飛行機は高いので 学生は、横浜から船に乗って シベリア鉄道を使ってヨーロッパ大陸に入るというのが通常のルートでした。 横浜から2泊3日の船旅をして シベリヤ鉄道の出発地であるナホトカでシベリア鉄道に乗り換えて モスクワ経由で7日間の鉄道の旅、そして ヨーロッパの各都市へと 旅行していました。 このナホトカに 極東の漁業公団が ありました。 オホーツク海で採れた サケ・マス、カニ、ニシンを 取り扱う公団でしたので金持ち公団でした。 お金のある所に物を売るのが 大阪の商人(あきんど)です!?(^^; でもナホトカへの出張は、ほんとうに ”悲惨 ”でした (´ヘ`;) なぜって??? ★いつ行っても食べるものがない。 本当に飲まず食わずの出張でした。 ナホトカで 一番大きい五ツ星(?)の ホテル・ナホトカ へ入ったら 最初にすることは ベリオスカと呼ばれるドルショップ での買い出しです。 欧州ビール2箱、 ウォッカ1箱、 サラミソーセージ その他 もろもろ食料品の買出しです。 ビールは 朝、昼、晩の 飲料水代わりです。 ウオッカは展示会場などで 荷役を頼んだ時の チップ代わりです。 お金を渡しても 買うものがないので、現物の方が喜ばれます。 サラミは 夜の補助食? もちろんホテルですから レストラン、 カフェテリア あることは、あります。 朝は、カフェテリアで黒パンと 最近カスピ海ヨーグルトとして大流行の グルジア産のケフィール と呼ばれるヨーグルトに、ハムか ソーセージ どちらかを選んで食べる の繰り返しです。 それを滞在している 2週間 続けます。 目玉焼きぐらい あるだろうと思われるでしょう。 メニューにはあるのですが、卵があったことがないので、食べたことはほとんどありませんでした(TへT) 昼は、日本より持参の カップヌードル。 2週間 毎昼 食べても これが 一番美味かったヾ(@^▽^@)ノ 夕食は ホテルのレストランで、 ボルシチ・スープ を飲んで黒パンに キャビアかイクラを タップリ塗って、コニャックを 飲んで お腹の中で パンを膨らませる。 そして、その日調達可能な一品を メインディシュ(?)として注文して とにかく 食べた気になる。 メニューには いろいろあるのですが、食材がないのでレストランとしても 出せるものしか、出しません。 だから 毎日 同じものしか 出てきません。 2週間、 同じパターンです。(´ヘ`;) ある時は、 いつものテーブルに 座ったのに、待てど暮らせど オーダーを取りに 誰も来ない。 近くのウェイトレスを呼んで 聞いてみると、座ったテーブルの担当も 夕食のために 外出したとのこと?? 公務員、客の都合はお構いなし(笑) あながたいるじゃないかと言うと、 私の担当テーブルは向こうです。 もちろん席替えです。(-_-#) ロシアの諺にあるそうです。 ”腹がへってから飯を食いに行くな” 注文までに 30分、最初の品が出てくるまでに 30分、注文したものが 全部出て来て 食べ終わったと 思ったら 2時間経過というは 毎度のことでした。 ★お湯が出ない、冬でも暖房がすぐに切れる。これが一番辛かった。 茶色の水、 お湯が出ないのは 慣れてます。 2週間ぐらいフロに入らなくても 死にはしません。 でも冬なのに 夕方になれば 暖房が切れるのには 閉口しました。 外は マイナス25度の世界です。 暖房がなければ 室内でもコートを 着ての作業となります。 ホテルに文句を言っても、いま工事中だから 来年には改善される 10年間 同じで受け答えで 最後まで改善されませんでした。 夏は夏で シベリア大陸の 蚊の大群が 襲ってきます。 窓に 網戸はあるのですが ところどころに 穴が開いてます。 それを上手いこと見つけて 蚊は侵入してきます。 もちろん蚊取り線香は携帯してますが、この場合の最大の対処方法は、小さな穴には セロテープ、 大きな穴には ガムテープを張ることです。 見た目?? 気持ちよく寝る為です。体裁は構っていられません。 これも生活の知恵です(笑) ここまでして 商売を? と思われるでしょうが ナホトカまで来る 日本の商社は 当時は いませんでした。 極東地区へ衣料品を提供してくれる商談会として、年2回の展示会は 公団から大歓迎されました。 開会式には 市長や日本領事も 出席して大盛況でした。 ナホトカでの 面白い話はたくさんありますが、 長くなりましたので 次回にいたしましょう。 とにかく展示会、商談会が終わり 分厚い契約書を抱えて帰りの船に乗った時には、不味い船内食も パリの一流レストランで 食べてる気分でした。 ▲Topへ |
| ●2003年11月12日 配信 「 日本人はマツタケが好きですね?」 |
| 前回、京都の息子夫婦が遊びに来た時に、お土産としてマツタケを一本 持って来ましたと お話しましたが、2本だったようです(笑) 松茸の産地として有名な丹波で採れたばかりなので とても良い匂いでした。 今年の丹波地区は不作で、松茸があまり採れないそうです。 キロ当たり10数万円もするそうです。 2本と云えども 貴重品です。 三拝して 食させていただきました(笑) お嫁さんが言うには、中国産もたくさん出てるけど、匂いが無いのでマツタケは やっぱり日本産に限るとのことでした。 中国産のマツタケも、松茸なので 日本の松茸といっしょで 採れた時は匂いがあるけど 中国からの 運送途上で匂いが消えてしまうのだと説明したら「そうなんですか?」と納得していました(笑) 最近は中国産だけでなくネパール産のマツタケが出回っていると、数日前のテレビでやっていましたが 、ほんの数年前までは韓国産が主流でした。 この時期の韓国からのお土産といえば「松茸」というほど、たくさん採れていましたが、最近はソウルの 南大門市場でも中国産を売っていて、韓国産は少ししかありません。 やはり乱獲と開発が原因のようです。 トムスがソウルに駐在していた1985年頃、松茸といえば 日本人と韓国人の間では評判でした。 アズマ(おばさん)が、山で採った松茸を 日本人駐在員の家族がたくさん住んでいる 東部二村洞(洞=町)に売りに来ていました。 夕方になると「安くするから買って」と売れ残ったマツタケの叩き売りです。 日本で言えばシイタケぐらいの価格でマツタケを買っていました。(*^-^*) ある時、韓国人から「日本人は、何故 あんなにマツタケが好きなのか?」と質問を受けました。 あの香り! あの歯ごたえ! etc. マツタケの美味しさを説明しても 「食べても たいして 美味しくないじゃないですか」 わたしたち韓国人には 分かりません。??? 云われてみれば、シイタケのように味があるわけでなし・・・。 松茸1kgを家族4人で 二日掛かりでボリボリ食べても、食べきれず、三日めになったら 今日も 松茸 ??? って状態。 貴重品として 1本か2本を 松茸ご飯だ、土瓶蒸しだと 賞味するのが日本の食文化だとしたら ちょっと寂しいような気がしますね(´ヘ`;) 彼らが言うように、マツタケ、松茸と騒ぐ国民は 世界中で日本人だけかもしれませんね? ▲Topへ |
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